労働と心身の2014年

 はじめに
 20代は楽園と地獄であった。24歳までは、大学生活という無限の自由の中、日本国憲法および法律さらに一般道徳さえ遵守さえしていればよかった。すべてから解放され、全てが自由だった。24歳からは地獄であった。永久になりたくなかった社会人にもはやならざるを得ない年齢となり、日本国憲法を順法するため、勤労に挑んだ。最初の仕事は1年も立たずに退職した。2つ目の仕事が決まっていたからである。そして、それは筆者にとって公私の利益となる職業であった。それから、5年。2014年はそのときのギャップに苦しむ。
 本稿では2014年までに至る1年前の状況、2014年の状況と結果、本日2015年の現状について論述する。


 2014年までに至る1年前の状況
 簡単に言うと「文句を言う」部署から、「文句を言われる」側の部署に異動となった。今この部署にいることを実感しつつ、「文句を言って」いたことことは、どれだけ「文句を言われる」側の負担になったかは想像できる。実感できる。一般的な表現をすれば、企画を運営していた側から、企画を計画する側になった。計画を運営していたころは、計画のどこどこが悪い、計画の発動が遅い、計画に問題がある等々「文句を言い」ながら、計画運営を行った。計画運営には計画に携わる関係者との調整事項、当日の企画運営資料作成や打ち合わせの実施など資料作成や時には現場に出て陣頭指揮することもあった。その中で失敗があったとしても、計画者へ「文句を言う」機会を持って、心理的負荷が少なかった。また、いくらかは計画者の責任であるという逃避ができた。
 だが、この計画運営が当時楽園だと思ったことはない。楽園とは、すべてから解放され、全てが自由だった状態であり、この計画運営という労働は、前職と比べても労働という側面では、十分労働的であり、幾度となく徹夜や終電帰宅をしたか正確な回数は記憶していない。それでも、「文句を言う」側は、「文句を言われる」側より楽だった。
 「文句を言われる」側に異動し、企画計画に携わっていく。もちろん、「文句を言う」実績を元に、「文句の言われない」企画の立案に努力した。だが、まず第1の敗北をする。それは、企画計画は、企画運営の業務を比べても、業務量として同等であり、企画計画の業務のほうが、企画運営より少ないということはないことである。すなわち、異動前も移動後も忙しいのである。第2の敗北として、もはや当時の上司は退職されたので、記載するが、特に直属の上司があまりに部下のために資することがなかった。過去社会人経験の中で、いろいろな上司に出会ってきたが、概ねが叱咤激励の怒りを部下に行うタイプ、終わりよければ全てよしという部下にとってはある意味で優しいタイプ*1で、これらの人をほぼ交互に2年ごとに上司として持ってきた。
 この2014年は筆者が始めてのタイプ。何もしないタイプであった。これには当初驚きを感じた。筆者の業務は計画立案であり、稟議の1ステップがほとんどスルー状態のノーチェック状態であった。*2その結果、企画立案は、ある決定的な事項をスルーされ続け、チェックを通り、稟議されていった。これが後に大きな災厄をもたらすことになる。それは、計画企画官から、計画が運用担当に引き継がれてから発現した。チェックの甘さから、計画運用における致命的問題を企画段階でフォローできていない事例が、多数発現する。
 同時に計画立案は、ひとつの計画を立案すれば、直ちに次の計画を立案する必要があり、ほとんど休む間もなく、計画の立案が続く。概ね2週間でひとつの計画を発動させるのだが、2014年においては、24件の計画を発動させたと認識いただければよい。*3この2014年にかなりの問題を含む計画が発動され、2014年中盤以降禍根を発現させた。
 その中で、計画の挽回を図るための計画を立案するが、本来発動させなければならない計画の立案期限も決まっており、手直しのための手直し計画の立案が、永遠の悪循環を発生させた。


 2014年の状況と結果
 2014年6月までこの体制が続いた。特に記憶に残る繁忙時期は、2013年11月。2件の大型計画の立案を同時にせねばならず、土日を潰して取り組んだ。この際は直属の上司も、助けになるのかならないかよくわからない手助けをしてくれた。2014年2月。年度末計画のため、多忙を極める。手直しのための手直しの計画立案などで、本来立案すべき計画と年度末計画が衝突し、二正面作戦の様相の状態となった。さらに計画上の重大な問題が発現し、この解決は今日を持っても完全解決しない事態となった。2014年4月。発動期限が年間計画で決まった計画の立案に必要な諸条件の策定に時間を要し、直接のアドバイザーとなる直属の上司からは決定打となるアドバイスや方針をもらえず、計画担当官単独で条件策定に1ヶ月を要する。2014年6月、先の計画を発動するべく計画の決済を行うための資料作成に多大なる時間を使い、2013年11月以来となる土日処理を発動した。このとき、Paris Risingという最大幸福事象や音楽ライブ参加による幸福数値増加により、反対数値となる不幸指数=仕事の忙しさのギャップは、2014年の最大値を観測する。
 最大幸福のParis Risingから帰国し、GW明けの1日目の勤務を終え、土日を挟んだ月曜日。確かに体調が悪かったのだが、これは、1週間復帰に要した。1週間程度を体調不良で休むことは、実は計画立案官になる以前、計画運用官の際も数度発生していた。
 2014年7月確か第一週目の金曜日。先の計画は無事立案され、発動の手続きが整い、計画運用官へ引継ぎが行われた。ここでひと段落かといえば、そうではなく、直ちに次の計画立案が休み明けの月曜日から始まる予定であった。そちらの計画立案は非常に迅速性が求められ、先の計画によって本来必要な立案期間を侵食しており、1週間で計画立案が必要だった。このとき、確かに体調が悪かったのだが、一週間休んだ。次の計画に必要な貴重な一週間であったが、休んだ。このあたりから、最大幸福と最大不幸とのギャップに心身が対応できる限度を突破していたと思うが、今思うとよくわからない。
 実は、すでに2014年1月より、通常の勤務時間帯である9時に出勤をずらし、11時出勤を原則とした勤務シフトになっていた。このあたりから限度がみえてきたように思うが、GWに体験した最大幸福は、その後襲った最大不幸にたえらることができなかったと思う。9月から2014年が終えるまで、通常の勤務時間に出勤したのは、両手で数えられる程度であった。それまで慢性的に40時間を超えていた超過勤務時間は、逆にマイナス付近もしくは0時間を指し、9月から2014年を終えるまでは、欠勤とならない必要最低限度の勤務時間を満了するのが、精一杯という状態であった。
 これは、最近世間ではやっている、いわゆる精神疾患ではないかと確信したことは幾度もあるが、まあ最低限度の勤務時間を消化し、欠勤とならないのであれば問題ないという判断はあった。だが、11月や12月付近になると、出勤しようと思っても、動悸を感じる状態もあり、精神疾患の病院に遂にと考えたこともあった。だが、結論から言うとそれはなかった。
 

 なぜか。ふと以下のページを、ニュースサイトか新聞か何かで見たからである。
 うつヌケ 〜うつトンネルを抜けた人たち〜 第1話 | 田中圭一 | note

 紹介記事にある「毎日毎日つづく原因不明のつらさ」という部分は合致するなと自己分析した。やむを得ぬか、精神疾患の発症を認めるべきかと思ったが、その先2コマ目をみて、やっぱり違うと感じた。「どんな曲を聴いてもどんな映画を観てもどんな風景をみてもなんの感動もわなかい・・・」奇しくも、映画楽園追放に心酔していた時期にこの記事を見つけたのだが、筆者に至っては、映画楽園追放に劇場鑑賞7回も足を運び、6回終焉15分前から、感化されて泣いた。*4そう考えると、精神疾患ではないなと思った。
 だが、後半のコマに再び理解できるコマがあった。「会社の人からのクレーム、グチ、不満げな顔・・・それらを毎日つきつけられて やがて」「オレってなんにもできないダメ人間じゃん」と自己嫌悪に陥ったと。ここは理解できた。なるほど、「文句を言われて」自己嫌悪していたのかと。

 
 2015年の現状
 文句を言われても言い訳せず、自己の限界と判断することで、自己を嫌悪しないこととした。(現在実施2日目)
 
 例)計画立案期限が、この日と決まっていても、期限をオーバーする。無理なものは無理である。
 例)正攻法ではなく、テクニック(裏技)を使う。現状に人員が正攻法でないので。

 ただ、文句を言われるのは、自己嫌悪(そのような計画を立案した責任を感じる。)するのは、常識人であれば、正常であろう。開き直る度胸で。


 あとがき
 本稿は2014年の表面に出さなかった事象として、明文化された記録が残らない可能性があったので、記録した。
 

*1:ただし、人を育てるという意味では、指導は必要である。

*2:なお、少しフォローすると、どうしようもないときや、課長からこの上司に指示があった場合は、筆者にも業務命令や補助があった。

*3:計画規模によっては、1ヶ月にひとつの計画の場合もある。

*4:ガネーシャ高官「だが、多くの教訓をもたらした事件であった。保安局のエリートであっても旧来の地球人の価値観に感化され、脱落する。」ね!

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