2011年を振り返る

 概要
 本稿は毎年年末に実施している1年の振り返りである。昨年は多忙を極めたことを背景に総括を実施しなかったが、本年は昨年と比べても比較にならない自由な時間をすごしており、本稿にて2011年を振り返り、ありきたりであるが、みなが行う1年の計を行い、来年の展望へと結ぶことを目的とする。
 なお、本建国記録の計画番号は年度決算で行っており、その他の考え方も年度に一部移行していたりと統一できていない部分がある。その点を理解しつつ、2011年1月から12月を回顧する。


 2011年1月〜3月
 建国記録の更新も実施されていない時期故により明らかにする必要が認められる時期と筆者も考えるが、本稿の執筆を開始して第一に躓いたのが、この1月〜3月においては建国記録がまったく記載されていないことによる過去の復活である。すなわち、何があったのかすら記憶にない。
 残念ながら、1月、2月は高度に多忙であったとしか表現できない。WFにすら欠席したことを思い出すと、総合的に労働に終われ、他所に余力を発揮する力がなかったと考える。
 3月。2011年の3月は我が国の歴史において記録に残り確実に伝承される日があった。
 2011年3月11日であることは間違いない。
 この日のことは現在も記憶にはっきりしており、当日の内容が乏しいのでここに筆者の記録を残す。

 2011年3月11日は翌日に土日を控えた金曜日であった。筆者は3月の繁忙な事務に追われ、代休で休みを取っていた日であったが、連日代休でありながら、出勤する先輩の姿や筆者の単純に手の遅い作業のため出勤していた。ここまで書いて、記憶にはっきりするといったが、いったい何の仕事に取り組んでいたは忘れた。職業について本建国記録で記録しないという暗黙の方針もあるのだが、それを除いても思い出せない。だが、机に向かってPCと事務書類とを交互ににらんでいたと思う。
 これもはっきりしない。実際この東日本大震災が何時に起こったのかを正確に覚えていないこともあるが、14時ごろと思う。このとき、別の事務所から有感地震があったが、大丈夫かと電話がかかってきた。震度は3であった。震度3は特に問題になる値でもなく、大きな騒ぎにもならなかったが、筆者は地震を感じなかった。また、筆者の勤めている事務所ではだれも地震を感じなかった。それは、地理が異なるからであろう。
 そうか、震度3ね。と思いつつ休日超過勤務手当ての付く仕事を進めた。だれかが、テレビをつけた。そこにはテレビが特番を放映し、燃えるコンビナートを映していた。なかなか大きい地震だったか。震度7ね。なるほどと思っていた。我が国は地震大国といわれると言われることは知っており、数年に1回、(数十年に1回ではなく)地震は付き物である。この地震があった先日も外国で地震があったように記憶している。邦人留学生が亡くなったというやつである。
 そう、コンビナートが燃える程度はやむをえない被害だと感じた。それは阪神大震災の火の海を見てからかもしれない。そういえば、阪神大震災当時も地震に気づかず、学校で特別にテレビを見る状態になって、規模が大きいなと感じた。10分ほどテレビを見ていたが、仕事に戻った。だが、ある映像を見て仕事をやめ、テレビを見続けられる場所に移動した。
 もちろん津波である。東日本大震災は結果的に数万人の犠牲者を出した。津波で数万人の犠牲者を出した地震は、もはや過去のものとなっているかもしれないが、筆者は大学時代であったスマトラ島沖地震(2004,12)がある。このとき、ある映像を見て、人が助からないなと思ったことがあった。それはこのスマトラ島地震が起こした津波の映像である。実際どの程度の死者がでたのか正確な数字をその後追いかけていないが、記憶の限りそれは5万とか6万という数字であった。5万人!
 だから、NHK津波の映像を流したとき、これは相当数がなくなったことを覚悟しなければならないと認識し、TVを設置していなかった筆者はこういうときはTVが役立つなと思いながら、インターネット放送のニュース番組を夜通し見続けた。
 
 それでも、翌日悲願であった、北近畿方面への新型特急列車287系の投入には参加した。
 同時に九州新幹線も開業したが、このときそれほどの遠地に行って帰宅できないという恐れが日本中に流布していたいので、中止した。筆者も大阪程度なら何とか帰れる。だが、九州となると開業したばかり。さすがに心配だったのだ。
 それでも、友人が九州新幹線に当日乗って鹿児島中央に行ったのはうらやましかったので、3月中4月上旬に鹿児島に行った。
 2011年3月は、歴史に刻まれる日である。

 
 2011年4月〜6月
 1月〜3月の繁忙期を終え、すでに述べたように4月に入ってからは九州新幹線視察を実施した。GWには昨年多数が北海道に旅行したことを羨み、北海道視察計画を発動。小浜線経由日本海フェリーによる経路選択をし、過去の移動と異なる方法で北海道入りした。また、初のLレンズ運用を行い、その性能は確実であることを認識した。その後も好調に外務発動にはやはり行かず、仕事が忙しく休養を必要とする点、パズルFPS、Portal2が発売されたことによる内向化と振り返るが、実際はtwitterLogを見ても外回り以外は相変わらず記述が少なくはっきりとしない回顧になる。
 ところで、九州新幹線視察計画は当初より最南端西大山へ行くことを想定していたが、経由地の指宿にて市営流しそうめんなる全国唯一の存在(と思う)と出会え、砂風呂にはじめて入り、阿蘇山を視察するという大きな成果を挙げた。鹿児島中央は訪れたことがあったが、その他の地点はすべて初めての訪問であり、よい経験となった。また、疲労回復用に月曜日を有給手配していたが、大分港よりフェリー帰宅し、同行者のNT氏が関西入り、さらに筆者とともに鳥取白兎海岸の視察へ発展し結果的に休養時間はなかった。鳥取へはその後2回訪問するなど、2011年当初に考えていた山陰中国地方重視の施策は計画1年目としてはまずまずと思われる。
 北海道視察計画は、前年単独発動した際、夕張に行きたかったのだが、訪問2週間前に各観光設備が冬季閉鎖となり、計画実施困難。次回への課題として記憶され今回の計画により無事達成された。内容としても大人数でわいわいがやがやと旅行でき、きわめて楽しい旅行だったといえる。
 EF70-200mm F2.8L IS II USM は、2010年にそれまでの「I型(正式にはIという表示はないが)」をリニューアルして発売された望遠レンズである。このI形の発売は、2002年に発売され今回のリニューアルは8年ぶりのものである。発売当時の実売価格は25万円。筆者が調達した時期には、5万円下落し20万円となっていた。この時期のレンズラインナップから考えると望遠より標準域を満たすレンズ調達が一般的に望ましい風潮であったが、8年ぶりにリニューアルされたレンズは今後5年以内に更新される可能性が少なく、かつ現在の技術で最高レベルの仕上がりと各所で高評価であり、将来的に調達することは確実であることを踏まえ、標準域より優先して調達した。結果は半分正解であった。正解だったのはもちろんその性能のすばらしさである。失敗だったのは、やはりAPS-CEOS kiss X2にとっては広角域に不足を感じずには得られないことである。そのことは調達前から認識していたが、初めて調達したLレンズである100mmL MACROと同様に望遠偏向であった。運用後ボーナス支給が近いことを認識しており、支給確定後広角域を満足させるべくEF16-35mm F2.8L II USMの調達を実施し、現在まで標準域以外の焦点距離をカバーするに至っている。なお、望遠距離をさらの補うため、EXTENDER IIIx2を調達しており、フルサイズでは16mm〜35mm、70mm〜400mm、APS-Cでは25mm〜56mm、112mm〜640mm相当までが今日の保有する焦点カバー範囲となっている。
 これらのように特筆すべき事象は、すでに挙がった九州新幹線視察、北海道視察、Lレンズ運用開始なのだが、5月の末にいたって大きく2011年を動かす事態が起こる。予想はしていたが、人事異動である。
 人事異動は6月1日発令であった。2週間前から京都離宮(2009年6月〜2011年5月運用)の廃止に伴う引越しに追われた。特に書籍や側室といった物理的な容積が多く、新しく運用を開始した「大阪離宮」においては、それらの蓄積は最小限とするという確固たる思いの下引越しを行った。将来的にも大阪離宮は廃止されることが目に見えている仮の都であり、京都離宮での出来事を反省し、容積の削減を図った。
 人事異動に伴う変化は本格的な運用の始まる次項に委ねる。
 

 2011年7月〜9月
 6月1日は、大阪で迎えた。人事異動により大阪の事務所へと移動となった。筆者の職務内容は特に変わらないが、負荷は大幅に軽減された。またさすが中枢部門であるので同期の人数が非常に多く、人的資源が豊富な環境へと一転した。前勤務箇所も若年層が存在したが、同期はおらずまた、5人以上居るという状態ではなかった。
 6月1日は、多くの変化をもたらした。後輩が出来、教えてあげる立場になったし、規模も大きくなった。だが、繰り返すが負荷はある業務がない故に大幅に軽減されたのだ。
 それを示すように6月以降外務視察計画は過去の勢いを取り戻し、立案と発動を繰り返す。7月末までの2ヶ月間で13計画が発動され、成功した。1〜4月はたった4個であり、大幅な増大である。これは、業務負担の軽減が大なる部分を占めているが、当然大阪地域からのスタートという交通的優位性がある。日帰りではいけなかったところも日帰りでいけるようになった。(体力的にも)同時に前任地でも行われてきたが、京都宮殿と離宮との間移動は長距離化しルートの選択肢も増えた。北近畿地区は残念ながら車で移動するほうに優位性があり、復路往路で様々な選択肢を展開できた。2011年は花火大会視察計画の発動を必須としていたが、3計画の発動に至り、2計画では撮影計画も実施できた。うち、伊勢花火大会と浜坂花火大会は年間行事化は困難かもしれないが、数年に1回は見に行きたい水準であった。
 事故以来コミケ参加を行うなど、8月を超えても順調に外務計画は発動され最終的にこの時期の計画数は24計画にまで拡大する。全シーズンを通して最も活発な時期といえ、悲願日本三景視察や毎年恒例の立山黒部アルペンルート視察計画、重点目標である中国地方視察計画関連として広島、呉、竹原(たまゆら)等の地区を視察した。 
 9月には2年ぶりに糸魚川地区の視察を行い、しまなみ海道輪行で走破するというこれも数年来の目標が達成されるなど、多くの成果を残した。
 旅行参加メンバーも昨年と異なり、同期、某大学の先輩でありながら、後輩になる?なども交わり、賑やかであった。

 2011年10月〜12月
 1月4日に至っても執筆が終了しないので、駆け足で行きたい。この時期の計画数は15個。7〜9月に次ぐ発動数であるが、特に目立つのは2011年2回目の北海道視察計画、竹原(たまゆら)、そしてうどん計画であろう。2011年2回目の北海道視察計画は、個人的に行きたい場所をぷろふぇっさ氏(ぷろさん)にご迷惑をかけながら、視察したものである。本計画の画像は未だに掲載されていないが、精査に時間がかかるので、気がすすむまで、放置している傾向がある。竹原視察計画はたまゆらの舞台探訪である。竹原竹灯籠というイベントが毎年1回実施され、それを逃さず取り入れることができた。そして、葱先生の家があまりにも近くて衝撃を受けた。
 うどん計画は今回は遂にバス1台を満員にするメンバーで構成された。こちらも画像の精査が遅れている。感想としてあれだけの人数をよく効率よく運用できたと思う。運用面は非常に評価できる。まさに訓練されていると表現せざるをえない。
 12月に入ってからは、けいおんのKTR列車が運行されるという事態になり、宮津線全線をのり通し視察した。ここまできて京都宮殿に帰宅しないのは初めての事例である。
 さすがに、異動から3ヶ月たち仕事のやり方も理解し初め、忙しくなってきた時期である。そのため、計画数は秋より減っている。
 このようにまとめてきたのが、2011年という1年の風景であった。 

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