新世紀エヴァンゲリオン新劇場版:序

 概要
 概ね前項で語ったが、筆者は元々新劇場版を見るつもりはなかった。それは、第一に映画館に行く場合、朝から夜まで籠もることが原則であり、この時期の上映作品にそれだけの資源を使う価値が見いだせなかったからである。また、専属映画館での鑑賞が基本であり、今回ddk氏の推薦があったので、いつも筆者が強硬に誘っている事例が多いことを考慮し、さらに既に放映されたネタが基になっていることから、はずれの可能性(同時に、あたりの可能性のだが)が低いと考えたからである。
 上記の理由で、本日本作の鑑賞を行った。

 感想
 本作序は、エヴァ1話から6話にあたる部分を新しく作り直したものである。wikipediaなどを見ると、リメイクではなく、新しく再構成したもの述べられている。序においてはリメイクとして見ても問題は少ないと思うが、今後はリメイクとして見ることは出来なくなると予想する。
 序は、リメイクとしても、再構成としてみても問題は確かに少ない。だが、再構成は確実に行われている。そう、特に本作における評価は、まさに再構成と言ってでよいだろう。優れたエヴァンゲリオンの研究書として、「エヴァンゲリオン解読 新版―そして夢の続き」がある。本書はかなり確信的なことを述べていると思うが、筆者ははっきりと違うと思う点があった。人類補完委員会と秘密結社ゼーレは同一では無いという見解である。本編を見る限り、中盤から人類補完委員会は消え、ゼーレが裏で暗躍する組織として描かれるのだが、この違いからこの本では、人類補完委員会はゼーレとは別であると語られていた。しかし、筆者はこれは間違いであると感じていた。感じていたのであって、その証拠があった訳ではない。この本では、作中の台詞が証拠として使われ、それをそのまま解釈するとその結論が確かに得られる。だが、筆者はそれは間違いと感じていたのである。
 何故か、それは、人類補完委員会とゼーレは本編の扱いとしては同一のものであるべきだったのだが、制作者側の設定が完成していなかったため、このような別の組織として語ってしまったのである。他のアニメ作品でも後々設定が変化することがある。そのほうが、設定として良かった場合や誤解が有った場合である。この場合、設定が未完成だったことから起きた問題だったと筆者は判断し、この本の見解が本編の考えとしては正確だとは認めるが、エヴァの設定としては間違いであると思い続けていた。
 本作の制作は元々有名な旧劇場版(事務上の表現であるが、Airまごころを、君にを指す。)で犯した罪を償うものだと考えていた。即ち、本編20話あたりで確定的になった初期構想の話の終わり方(月から使徒が襲来する、渚カヲルの猫が最後の使徒だった、大規模な戦闘を描く)、時間的に且つ社会影響的に(こちらは、ブームが広がってからの理由である)出来なくなってしまった。当時庵野監督は心理的に富野御大がVガンダムを作っていた状況と同一であったと予想し、あのような冬月教授の専門、形而上的な結末を作り出してしまった。だが、それはそれで評価出来る内容である。巷の評価がどうであれ、筆者は再び人類を作り出す過程を描いた旧劇場版はそのとき語られていた旧時代の超自然的なものを容認すれば、可能なものであった。それに、再び人類を作り出す過程など旧劇場版のように形而上的になることをは止むを得ないことであろう。それに、少なくとも天使のたまごより理解しやすい内容であった。
 さて、少々話題がずれたが、説明上致し方ないだろう。再構成の話題に戻りたい。本作ではそれまでの本編などの失敗を総括し、設定がかなり高度な水準になっている。当然であろう、これほど映像化の機会(ビデオ化の際の映像追加、リニューアル版の音声台詞の追加による設定の強化と改善)と設定関する批評があった作品は少ない。また、10年の歳月が制作陣に設定を確定させる時間があった。
 先ほど人類補完委員会とゼーレの混乱が話題となったが、本作では人類補完委員会は登場しない。初めからゼーレが黒幕として描かれている。この点は、制作陣により設定が再構成されたと考えられる。そして、その再構成は本編で描かれなかったものの、様々な議論によって予想された結論が確認できた。
 その中で、「プラグ深度」は最たるものではないだろうか。本編では、プラグ深度という言葉は、精神汚染に関連するものの、映像としても表現としても断定されたものが無く、一部層を除いてわかりにくいものであった。プラグ深度は、エントリープラグがエヴァ本体の脊髄神経までの距離を表すもので、エヴァ本体の神経と近づくことにより、精神汚染の恐れが高まるが、シンクロ率は向上する。本作ではCGでプラグ深度が表現され且つ、零号機の暴走の際にプラグ深度がエヴァ本体(零号機)によって下げられ、搭乗者(綾波レイ)の精神を取り込もうとしたというエピソードが描かれている。他にも、レイとシンジの接触を図ることが意図的なものであったことなど本編では矛盾したり説明不足と思われる部分が大幅に加筆訂正されたと言える。
 その点が本作の最大の評価であろう。これにより、今まで正しい結論が得られていなかった問題に解決の光が届くことになる。だが、本作は新劇場版であり、考え方によれば本編と旧劇場版の世界と異なるエヴァの世界とも考えることができ、計画がうまくいき人類の補完が行われたストーリーパターンとも理解できる。そうなると、この新劇場版の結末がどのようなものになるか、少なくとも筆者は旧劇場版とは異なる展開になると予想しているのだが、本作ではその確信的な部分を予想するにも情報が少なく、不可能に近い。しかし、月にリリスダブリスタブリス」(Tabris)が居る様子は、本編であった自殺の流れを想像させるものであった。だが、その場所は月面である可能性が少しながら高いのではないだろうか。ネルフ本部地下セントラルドグマに安置されているリリスは、どうも偽装の可能性があり、ここで再びこれはリリスではないと気づいたダブリスタブリス」(Tabris)が、使徒の反映する世界を諦め、人類の繁栄する社会を認め、自殺するという本編の流れは、条件としては利用できるのだが、月面に本来のリリスと思われる使徒があり、ダブリスタブリス」(Tabris)もそれに気づいていることは確実である。そうなると、使徒の未来を諦めて自殺することは考えにくく、また自殺するにしても本来のリリスがいる月面であろう。
 うむ、本来語るべきところに中々たどり着けず、更に流れの無い文章を書いているのが実感できるので、本作への批判を行う。本作への批判は、否定的意見であり、賛成意見はない。まず第一に既存の作品を見た人間が本作を見た場合、単なる再構成であって、特に目新しい事がない。一部使徒の活躍が、ビジュアル至上主義の新しい世代(本編を知らない世代)には綺麗な映像で良かったという意見が現れると思うが、本編のとりわけ序盤の作画水準はとりわけ不満が出る内容ではなく、それだけの価値はない。
 6話分の内容が、98分にまとめられ、総集編としてみると時間が短縮出来るという考え方も出来る。だが、エヴァ本編の内容は、それ自体が1つの完成した作品であり、エヴァの最も濃いエッセンスを表す部分が多く、再構成された本編ではそれが薄くなっている箇所が多い。それは、エヴァのおもしろみや見所をどこに置くかで変わってくるのだが、少なくとも筆者は第5話にあった零号機再起動実験の際の「レイのむこう」を表現したパートはエヴァの理解に重要な要素であると考えており、それがカットされたことは非常に残念であると言わざるを得ない。4話雨、逃げ出した後にで行われたシンジ逃亡から確保までの雰囲気を好み、相田の絡みがなかったのは残念である。再構成自体の内容は先ほど紹介した解釈本にて多くが語られており、筆者としてはそれは周知の内容であると考えている。
 第二に、無駄に現代風に再構成されたことである。当時の本編が作成された時代と今日ではコンピュータグラフィックス(CG)が一般化されたという違いがある。本編ではコンソール画面やグラフ、背景、動的なオブジェクト、さらにはエヴァ本体までがCG化されている。少なくともこのCG化はヤシマ作戦発動時の電源系統が接続されてゆくオレンジ色のAvalon風の単色CG以外はすべて不要だったといえる。特に目を隠すものを感じたのは、第3新東京市の地下ビル群が地上形態に移行する際のものである。どうもCGというのは一度オブジェクトを作ると、セルより動かし易く無駄なオブジェクトが動いているものがある。地上形態移行時に作業用クレーンがゴソゴソと動いている描写があるが、無意味である。また、コンソール画面のCG化は冒涜といえるものであった。シンクログラフやエントリープラグ挿入画面などがCG化されたが、安っぽさがに。じみてでていた。下手にCGにせず、「SDAT」をそのまま残したように、再構成しなかったほうが良かったものが多かった。
 ヤシマ作戦に関連するものでも気になったものがある。どうしたらあの短時間でエヴァ狙撃用の砦(推定:鉄筋コンクリート製)を建造し、さらにエヴァ輸送専用の4車線の鉄道を整備したのか。ヤシマ作戦の立案過程も気になった。これに関しては、完全に本編の立案過程の方が良かった断言できる。それは、後術する音楽にも関係があるのだが、非常にテンポが悪かった。あの場面は、エヴァ本編史上最もテンポの良いパートであり、あのように改悪されたのは、残念である。その結果、零号機の持っていた盾の説明も省かれてしまった。作戦発動後は、本作に有利な判定を許すが、あまりにも曳航弾の多い描写はいかにもアニメ的であると感じてしまった。作戦発動後唯一気になったのは、初号期の発射間隔である。あまりに長すぎる。碇司令による更迭の時点で初号期は消滅していただろう。演出上仕方ないと思うが、それまでのラミエルの発射間隔と威力を見ると長い。だが、ラミエルも最大出力を使ってしまい、再発射に手間取ったという考えを採用すれば解決する。
 本作の使徒は撃退された場合、赤い血を吹き出して、消滅する。この赤い血という設定は本編では中盤以降確定したもので、本編で言う第3使徒の血は紫で描かれていた。使徒が人類と同じ生命体で、人類は何番目かの使徒だったという設定に繋がるもので、この点も再構成の成果と言えるのだが、血を吹き出して死に、その後それが第三芦ノ湖のように広がるというのは頂けない。現実的に処理に一体どれだけの経費がかかるのであろうか。仮に人血とした場合、第三芦ノ湖がすべてそれになったとき、どれだけの惨事が起こるかは、空想科学読本を参照して欲しい。血を吹き出し、それを印象的に見せることは、エヴァの成果である。だが、すべてがすべてあのような形で消滅するのは、現在設定が不明な以上賛成できない。
 映像と共に気になったのは、音楽である。台詞については、一部冬月コウゾウの台詞が無くなり、冬月コウゾウと碇司令の台詞が増え、プラスマイナスでった。また、声については、ゼーレ(黄色)の声が変わっており、不満を覚えたが、それ以外に劣化したという感想は持たなかった。(ddk氏は違和感を覚えたそうだが。)
 音楽に話を戻そう。はっきり言って、本作における音楽の使い方は、映画史上最悪ではないだろうか。全く合っていない。そして、必要な場所に用意されていない。そのうち、一番憤慨を感じたのは、シンジがジオフロント内部を初めて見るときに本編であった音楽が無かったことである。ジオフロントの規模に触れそれに圧倒的なものを感じるシンジと視聴者に当てて使われた音楽がない。恐ろしい事である。本作では、あらゆる場面で新しく作られた音楽が不似合いであった。ヤシマ作戦のテンポの悪さも音楽に責任の一部がある。本作では、ヤシマ作戦はテンポ良くではなく、丁寧に描きたかったのだと推察するが、筆者としては本編の優れた場面が新劇場版でなかったことは寂しいことであると考えている。
 エヴァは監督らの趣味から特撮の要素が取り入れられ、映像的に優れたものがある。だが、本作ではあの「白文字に地名、組織名、兵器名」を示す特撮的字幕が無かった。あの白字幕はエヴァに必要不可欠な要素と考えていただけに、本作にてその手法が使われなかったことに驚きを感じた。
 ちなみに、リリスと葛城が呼ぶ存在が、セントラルドグマに安置あれ、それがエヴァの世界の命の源であると唐突に紹介されたが、この唐突さには注意が必要である。本編を見た人間としては、あの物体は物語の重要な鍵であり、あのように安易に扱われるものではない。そして、葛城は本編では本当の計画を知らない人間である。wikipediaでは、あれは第4使徒であると言われているが、それが正解であろう。本編で第3使徒として扱われた「サキエル」が第4使徒として扱われていると表現されており、となるとあの物体は第3使徒と考える。あの物体リリスはそれほど簡単に謎を明かすものではないのだ。重要度を考え、あのように扱われたことは、別の理由があることを考慮しなければならない。即ち、ネルフの一般職員を瞞すという理由などをである。
 総括して、再構成されたエヴァは、本編における矛盾や説明不足に注意が図られ、より完成した内容となっており、評価出来る内容である。ただ、本編を幾度となく視聴し、それにならされたものとしては、再構成されたエヴァは違和感を感じる部分のあったエヴァであった。しかし、本作が駄作であるかと言えば、優秀な作品であり、十分に鑑賞に堪える作品であると考える。


 文章情報
2007年9月21日8時22分 一部訂正、削除部の部分

copy right 大宇宙拡大大帝国建国委員会 2004-2018.