涼宮ハルヒの消失

 WF前の2月6日に鑑賞した。

 鑑賞の背景
 当初、我々(十兵衛さんと筆者)が鑑賞を試みたのは、AVETERであった。AVETERは、剣崎さん曰く「オタクなら一見すべき映像技術が使われている」ということなので、公務の詰まる日程を鑑みたところ、唯一最短で鑑賞できる日がこの2月6日だった。午前中に鷲宮の参拝を終えた我々は、映画鑑賞を計画したが、日程上どうしてもAVETERを鑑賞できないことが確実となった。そこで、お互いに興味関心のある本映画を鑑賞する合意が自然と形成されていた。


 感想
 酒なしで酔ったのは、記憶する限りこれで2回目であった。
1度目の記憶は、がれきっさ猫鯖に完成した「るるぶ諏訪」を届けた時だった。みしゃくじ祭の際は実感が無かったが、6回も諏訪を訪問し、NT氏やサイトーくんと取材を重ねた結果をNT氏がまとめた諏訪版の苦労は、かるく付き合った京都版の比ではなかった。すわっこの夕日などは、まさにそのために諏訪湖に張り付いた。時にはアルペンルートを抜けて長野入りし、木墨のカッシーさんの経営する旅館での料理は、これまで味わったことが無かったものであった。そんな感動がかなったのが、がれきっさ猫鯖での「るるぶ諏訪」の披露であった。

 涼宮ハルヒの憂鬱から、5年?が経過した今消失をみて得られた感動は、この流れと一致する。射手座の日により出会い、涼宮ハルヒの憂鬱Vで今まで感じていながら、言語かできなかった、思いを再現してくれた時、当時のアニメにおける理想の消失から、現実に回帰していた筆者を再び理想に戻してくれた。それ故に、涼宮ハルヒの憂鬱シリーズの小説版を読破した筆者は、第二期の早々の予告は大いに期待していた。しかし、その期待を裏腹に、いっこうに続編は制作されず、制作会社も京都アニメーションが作成するほかのアニメに筆者に視点も移っていた。「らき☆すた」、「けいおん!」と作品が進み、やっと「新アニメーション」が09年に放映される。
 1話目は予想通り、そして期待通りの「笹の葉ラプソディ」。これをもって、消失の起点が作られる。劇中登場するが、このいわゆるタイムワープが無ければ、消失のあの展開が起こりえない。笹の葉ラプソディが放映されたその後、順当に「エンドレスエイト」やその他のエピソードを持って、消失に入る!と筆者は腹をくくって予想していた。そのために、1年前に映像音響環境の刷新を図ったぐらいである。
 だが、その希望は永遠にかなわなかった。ハルヒたちの夏休みが永遠にループすることにより、この望みも永遠のループを持って、空間から切り離されてしまった。その結果筆者がとった選択は、ハルヒの放棄である。原作事態もハゲの更新遅延(おそらくもう書きたくないのだろう)により、魅力を提供してくれなかったハルヒを捨てた。漫画版やハルヒちゃんの憂鬱などのオムニバス作品における怒りもそれを妥当な選択だと判断させた。
 故に、実際ハルヒの消失が劇場版で放映されると聞いても、マクロスFの劇場版並みに期待をせずにいた。もう勝手にやってくれというのが正直な気持ちであった。このとき鑑賞を決めたいた作品はジョニーデップ出演の不思議の国のアリスぐらいである。


 だが、みた。
 筆者は消失をみた!
 みてしまった。 

 消失に期待していた光陽園(実際にあるのは、甲陽園ハルヒや涼子再登場(朝倉涼子)をみたかった。鑑賞後も、しゃべる長門長門ではないと提唱続ける方針は変わらない。きょんくんが涼子に刺されたことで、雪山遭難事件やミチルの登場があるのだなという安堵があった。周防九曜と佐々木の動いている姿。鶴屋さんがもうひとりの主人公として地位を完全なものとする、涼宮ハルヒの陰謀の映像化の単なる橋頭堡に、本作は他ならないが、その映像水準には、さすがに感動した。
 さて、えみりの活躍が再び見られるのは何年後になるのか。

copy right 大宇宙拡大大帝国建国委員会 2004-2018.