映像の世紀 第4集ヒトラーの野望

 世界恐慌によって、大衆は強い統制を求めた。そしてナチスファシストが台頭することになった。第4集はヒトラーに焦点を当てる。1930年代アメリカ退役軍人が恩給の先払いを求めてワシントンに集まる。その数は2万に至り軍隊を投入して制圧を図る。その指揮は陸軍参謀総長マッカーサーが行った。回想では、退役軍人は共産主義者であり、革命の危険があったとしている。ソ連では経済発展を続けた。社会主義共産主義体制では資本主義のもたらす不況は制度上発生しないのである。このときソ連は栄華を極めた。この反映の姿を見て、多くの人は社会主義に理想を求めた。だが、社会主義は経済体制として有り得ない存在である。
 ドイツは、世界各国の中でも特に強烈に大恐慌の影響を受けた。その経験がヒトラーの台頭を許した。大衆の沈んだ心をつかんだのが、ナチス国家社会主義労働者党である。ドイツの大衆はこのヒトラーに運命を委ねたのである。ヒトラーは幼少期は建築家や美術家を志した。だが第一次世界大戦の敗北でドイツ国家の再興のため政治家を志した。まずミュンヘンで暴力での転覆を目指したが失敗。獄中で我が闘争を生み、合法的な政権獲得を目指した。右手を上げる敬礼方法、ユダヤ人排斥に証であるカギ十字、かつてない政治宣伝、ラジオなどの駆使により、ヒトラーは人身を掴んだ。大衆は情熱のこめられたヒトラーの演説に心の救いを求め、新しいドイツに希望を持った。ヒトラーの演説を聞いて感心する。うまいものである。民衆が同じ意見を持つところや怒りの部分では、自分も民衆と同じようにに怒りを表明する。
 日本は、満州国の制圧を進める。リットン調査団の日本の自作自演報告に不満を表明し、国際連盟を日本は脱退する。これにより日本はより国際的な孤立を深める。日本は満州のよって世界恐慌を乗り切ろうとした。アメリカでは、F.ルーズベルトが就任。ニューディール政策によって恐慌から脱しょうと試みた。公共事業による失業者の救済である。しかし、効果は上がらずストライキが多発する。労働者は鎮圧された。新聞はストライキではなく、共産主義による暴動であると報道した。そんな中、アメリカにもドイツ系移民によってナチスの集会が開かれる。イタリアでは、ムッソリーニのよるファシスト体制が完成しつつあった。イギリスでもファシスト連盟が生まれる。フランスも続いてファシスト勢力は台頭。各国は警戒感を募らす。
 
 ドイツではヒトラーが事業を進めていった。公共事業によってアウトバーンが作られた。第一次世界大戦の従軍カメラマンはヒトラーに使える宣伝撮影者に。国民車フォルクスワーゲンの製造それらはドイツ国民を喜ばせ、失業者は急速に減少。ヒトラーに奇跡と呼ばれた。これらの成功により、ヒトラーは首相から総統に就任。他の政党を解体した。そして、この時期からユダヤ人弾圧が始まる。強制収容所が生まれた。また、ドイツは本も燃やした。これらユダヤ人排斥主義による民族虐殺や書籍の焼却は容認できない内容である。また、過度な民族意識ナショナリズムの高揚は排斥は偏見をもたらす。この点も容認できない。ヒトラーの強力な指導体制は良いが、その政策は間違ったものが存在する。その結果優秀な人材は国外に流出した。
 1930年代、ツェッペリン号の爆発、流線型高速鉄道、テレビ中継されたオリンピック、ベルリンオリンピック。そして盧溝橋事件から日中戦争に移る。南京を攻略。南京大虐殺の証拠映像などが映る。ある程度の日本軍の虐殺はあったかもしれないが、中国が主張するような人数の虐殺は有り得ないだろう。この映像は中々強力なので注意が必要である。
 ヒトラーはドイツ民族の生存権の確保のため軍備拡張を行う。徴兵制度を復活させ、急速な拡大を行った。そして、まずラインラントに進駐する。ラインラントはヴェルサイユ条約で非武装地帯と決定されており、それを破ったのである。フランスは内政に問題があり、対応ができなかった。スペインの内乱にヒトラーは兵器実験として参戦。そのときの都市ゲルニカ空爆の風景から有名なピカソの作品が生まれた。ドイツは国際的孤立を深めぬように、日独伊三国防共協定を締結。その後、内部工作を済ませたオーストリアを制圧。続いて、チェコの併合を行うべくプロパガンダ映像を放映した。チェコに対し強硬な演説を受け、チェコは軍を動員、安全保障条約を結ぶフランス、イギリスも動員を行った。人々には第一次大戦の記憶が蘇った。

 平和を維持する手段は一つであった。国際会議の開催である。ミュンヘン会議が開催され、世界各国の首相が集まった。そして、その行方を世界が見守った。会議は、チェコの領土犠牲をによって平和維持が行われた。ドイツの軍事力のよる脅しでイギリスなどに譲歩を導きだしたのである。味を占めたヒトラーチェコの全領土を制圧する。そして、ポーランド侵攻を宣言する。これがヒトラーの終焉をもたらした。ポーランド侵攻の制裁としてイギリスは宣戦を布告。平和への努力は泡と消えた。フランスも直ちに出兵。こうして第二次世界大戦が勃発する。ヒトラーが政権を保持して6年後の出来事であった。

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