映像の世紀 第6集独立の旗の下に

 第二次世界大戦における日本の敗北は、アジア地域に力のバランスを崩した。列強の圧力は空白になり、植民地となっていたアジア各地の独立を促した。第6集独立は旗の下に。
 インドではインド門と言う門が大英帝国国王を迎えるべく建造された。ジョージ2世はインドの皇帝が自身であることを示すために、インドへ向かう。インド民族は広大なイギリスの力に圧倒された。その後、アフリカの植民地へジョージ2世は向かう。その土地には、ガンジーが居た。ガンジーは列車で受けた人種差別を元に、独立運動へと向かう。ベトナムはフランスの植民地であった。フランス人はベトナム人を道具のように扱い、ベトナム人はフランス人を恐れていた。朝鮮は日本の植民地であった。1910年には韓国を併合した。1914年、第一次世界大戦が勃発する。そこへは戦力を補うためにアジアに人々が運ばれた。
 1920年代中国は列強により割譲されていた。特に上海は中国であって中国でないといわれていた。中国は特に外国の支配が絡み、中国国民は低い地位に置かれていた。そうした中、孫文が現れる。三民主義(民族・民権・民生)の主張を行った。孫文は、ロシアのコミンフォルム共産党情報局)から知識を取り入れた学校を作る。その中には、若き蒋介石周恩来ホーチミンというメンバーが居た。革命軍の不在が革命の不成功や革命の未発生の原因であると、孫文は立ち上がる。孫文の言葉は、のちに蒋介石が逃げた台湾の国歌となった。この学校の卒業生は国民軍の幹部となっていった。
 
 1915年、インドにガンジーが帰国する。ガンジーの活動はすでにインドで知れ渡っており、多くに民主が集まった。ガンジーは非暴力を説いた。民衆はそれに従った。暴力を振るう悪しき欧州の方法をインドが取り入れるべきではないと言う考えからであった。インドは、2つの大きな宗教があった。ヒンドゥー教イスラム教である。その対立をガンジーはインドに住みひとなら宗教は関係ないという立場で回避した。インド国旗はガンジーが作った。上からヒンドゥー教を示す色。イスラム教を示す色。そして、その他少数宗教を示す色。中心に紡績でインドへの反抗を示した紡績機を置いた。その後も精力的に活動し、塩の道活動など反イギリス運動を広めた。その結果、本国政府は折れ、活動の停止と引き換えに交渉の席を作ることになった。そして、ガンジーは交渉をすべく、イギリスに向かう。
 一方中国では、孫文が死去した。志半ばでの退場であった。孫文は、死の直前まで有力者の会議、国民大会議の開催に努力していた。死後、共産党ストライキを指導。それは、外国人排斥へと進歩していった。国民党を告いだ蒋介石は、共産党の影響力に脅威を覚え、検挙を行う。孫文が束ねた組織は、共産党と国民党の2つへ分裂してしまった。
 ロンドンに到着したガンジーは、チャップリンなど多くに人から歓迎を受ける。だが、イギリス政府からは厄介者扱いであった。インド少数民族87名を会議に呼び寄せていた。ガンジーと87名という対立になった。ガンジーはまったくの無力であった。そして、ガンジーは帰国後逮捕される。そして、一時表舞台から消える。

 1930年代日本。満州国皇帝溥儀が帝都を訪問する。日本はこのときアジア地域の植民地化を進めていた。満州は日本と変わらぬ風景を持つようになった。南満州鉄道は、拡張を続け、領土が拡大していった。その拡大には、労働者としての中国人や朝鮮人が居た。
 中国共産党は、山岳部に拠点を設置。毛沢東共産党の指導者となった。共産党員は自給自足の生活をし、機会を待った。そのですでに、毛沢東は独自の革命論を保有していた。事変が発生し、毛沢東蒋介石と協力する。国共合作である。毛沢東は日本は軍事力を保有するが、持久戦になると勝機があると考えていた。そうして、日本がアメリカとの戦争で疲弊する中、共産党の地盤を固めた。
 1941年、ホーチミンは海外での潜伏を追え、祖国に帰国する。太平洋戦争期、ホーチミンは逃亡を続け機会を伺い、若い世代に知識を伝承した。そうして、ベトナムの独立組織は結成されつつあった。
 1945年、日本敗北。第二次世界大戦終結する。終戦後、アジア地域には列強各国が戻る。インドではガンジーに代わりネルーが指導を行っていた。だが、ネルーヒンドゥー教信者。それにイスラム教信者が対立した。中国では毛沢東蒋介石が対立。第二次大戦後も戦火が続いた。ベトナムでは、ホーチミンの独立宣言と戻ってきたフランスとの対立が始まる。
 
 ホーチミンのフランス政府との独立交渉は決裂していた。そして、帰国後全面戦争インドシナ戦争が始まる。フランスは物量でべトミンを襲った。ベトナムの拠点はづぎつぎと制圧されていった。ベトナムの兵士はこのときあまりに無知すぎた。ホーチミンはゲリラ戦を発動。徹底抗戦を進めた。
 インドでも暴動が発生。イギリス軍は鎮圧を行うが、その数に手に負えない状態となっていた。そして、ついにインドからの撤退を行う。そうして、インドの植民地支配は終焉を見せた。そして、ヒンドゥー教イスラム教の調和のためにガンジーが再び脚光を受ける。そして、双方の指導者と面会していった。だが、分裂は収まらなかった。イスラム教徒は分離しパキスタンを建国。イスラム教徒が居なくなったインドではネルーが長となり、インド独立が行われた。ガンジーの目指したひとつのインドは実現できなかった。ガンジーはそれを悔やみ、旅をしながら説得を試みた。ガンジーは暗殺される。ヒンドゥー教徒によってイスラム教の肩を持つ存在として、恨みを買っていたのである。インドの分離と独立は多くの難民を生んだ。その数は1200万人に達し、史上最大の難民と呼ばれた。
 1949年、中国では共産党が勝利し、国民党軍は敗走し、台湾へ逃亡した。アメリカの援助が打ち切られたのが大きな要因であった。中国は共産党の元一党独裁体制に置かれた。
 
 ベトナムの戦いは、8年のときがたっていた。ディエン・ビエン・フー要塞で勝負が行われた。ベトナムは中国から支援を受け、フランスはアメリカから支援を受けた。ホーチミンの声もと、開戦する。要塞はベトナム軍の山頂からの砲撃を受け、防戦になっていた。フランス兵士はその恐怖を回想する。ディエン・ビエン・フーは56日間の死闘の結果陥落させた。正面の戦いを挑んで初めて勝利した事例であった。フランスを排除したホーチミンであったが、アメリカの介入を受ける事態となった。共産主義にに対する脅威からである。

 冷戦時代に世界は突入し、独立国はAA会議を開催する。ネルーはその最終日に演説を行う。アジアの民は、自らにふさわしい輝かしい未来を自ら切り開いていかなければ成らないのです。大国の圧力を拒否したAA会議。だが、アジアは大国の介入を受け続け、戦争は続いた。ベトナムではアメリカとの戦争が始まり、インドとパキスタンも戦争を開始していった。

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