映像の世紀 第7集勝者の世界分割

 ヤルタ会談。アメリカ、イギリス、ソ連の指導者が終結した。彼らは第二次世界大戦後の世界構想の駆け引きを行っていた。この結果、多く民族は引き裂かれる結果となった。戦後の世界を決めたヤルタ会談。ヤルタを通して、戦後の世界、冷戦を見つめる。

 第二次大戦中、アメリカは同盟国ソ連に多くに兵器や資金を提供し、ドイツの敗北は決定的となっていた。同盟軍は戦後処理の内容、最終作戦の調整の為各国首脳が集まる。ルーズベルトは、病に犯されていた。死を前にして、アメリカ中心の体制を構築使用と考えていた。チャーチルは、ドイツ敗北後はソ連が脅威と考え始めた。スターリンは、共産圏の拡大を目指していた。それぞれの思惑がヤルタでぶつかる。
 ドイツ問題。敗北が確実なドイツの処理問題である。スターリンは、ドイツを解体し、賠償としてドイツ財産の8割の接収を求めた。チャーチルは、ベルサイユの反省から反対する。だが、ドイツが再び反抗することは、各国の共通の脅威であった。そこで、ドイツは4カ国での分割統治が決定した。
 ポーランド問題。最大の焦点であった。会議日程の大半はこの問題に使われた。スターリンは、ソ連の防衛のため、通路となるポーランドの支配を求めた。チャーチルは、ポーランドを民主主義国家として復興したいと考えた。共産圏の拡大を危惧したのである。ポーランドは、領土を多く右、ドイツよりに移動されられて解決する。だが、チャーチルは、ポーランド共産党政権に対して、亡命政権の参加を求めた。この問題は、双方譲らず、自由選挙の開催という手段で、一応の解決を見た。だが、ポーランド問題は今後も話題に上がった。
 バルカン半島問題。バルカン半島は、ソ連が解放を行った。その結果、バルカン半島ソ連の影響が強く発生しだしていた。イギリスも、バルカン半島に対して、影響力を求めていた。それらの地域の影響力をイギリスとソ連は割り当てた。
 極東密約。ルーズベルトは、チャーチルを除いて、スターリンを別室に呼ぶ。アメリカの損害は上昇しており、日ソ不可侵条約を破って、対日参戦を求めた。スターリンは、千島列島割譲や満州鉄道の利権を認めることでそれを承諾した。このとき、台湾問題もあがった。日本領であった台湾の中国への返還、朝鮮半島の独立を確認し、米ソの分割統治も決められた。これらの重大な決定を行い、ヤルタ会談は終えた。

 ポーランド全土はソ連が制圧。共産化を進めた。そして、亡命政権の構成メンバーをスターリンは逮捕してしまう。チャーチルルーズベルトは、危惧したが余力がなく、解決できなかった。病を患っていたルーズベルトは死去。ソ連穏健派であったアメリカの指導者は倒れ、アメリカはソ連に対して強硬な、そして対立する存在となってゆく。アメリカの次の指導者は副大統領トルーマントルーマンは、大統領になって初めてヤルタ会談での重大な内容とソ連ポーランド取り決め違反に気付く。トルーマンソ連外相との会談で、これを強く指摘。これ以来確執が拡大していった。 
 7月、ポツダム会談が開催。その途中に原爆実験成功の報告を受けたトルーマンは、ソ連なしでの日本降伏の計画を考える。トルーマンは、スターリンの自己主義を完全に見抜き、敵対する存在になった。日本原爆投下とともに、ソ連が参戦。日本軍兵はシベリアに拉致され、強制労働を強いられた。日本は千島列島や満州を失い、中国残留孤児を産んだ。日本無条件降伏後、ソ連は、北海道の分割統治を提案。トルーマンはそれを拒否。北方領土を除く日本は、アメリカによる支配は行われた。朝鮮半島は、日本と異なり、北をソ連。南がアメリカが北緯38度線を境界として分断された。
 
 終戦後、アメリカでは若者文化が開花しだし、反映を続けた。対し欧州は、凄惨であった。ドイツは難民が発生。130万人は命を落とす。ポーランドでは、ソ連の軍事圧力の下共産主義が台頭する。産業は国有化された。東ヨーロッパはソ連の支配が広がっていった。そして、その姿を見たチャーチル鉄のカーテン演説を行い、ソ連を非難する。スターリン共産党機関紙に反論を記載した。4ヵ月後、原爆実験が行われた。日本の戦艦はその実験の使われた。ソ連に対する軍事的優位をアピールする実験であった。
 ドイツは、東と西に分割された。東西は対抗意識を燃やした。アメリカの圧倒的な背景を基にした通貨改革では、西側通貨の交換レートが上昇した。これに対する対抗策として、ソ連はベルリンの西側地区への隔離を強行。電力供給、電車、交通が遮断された。チャーチルは断固たる対抗策を提案。物資空輸を敢行した。一日250機の輸送機が着陸し、8000トンの物資が運ばれた。ソ連は強大なアメリカの輸送力に敗北、封鎖を解除する。だが、東西分裂は決定的なものであった。東西で別々の国家が生まれた。国境には監視が置かた。
 
 ソ連が原爆の開発に成功により、優位は崩れた。中華人民共和国の建国により、中国はソ連と同盟を結んだ。共産主義の脅威がアメリカ各地で宣伝された。1960年、朝鮮戦争が勃発。北朝鮮軍はソウルを電撃的に制圧する。アメリカは直ちに反抗を宣言。軍を動員した。5年間の平和は終焉を迎えた。9月に入り、国連軍は朝鮮半島に上陸。さらに中国が共産陣営の支援を表明。停戦にいたる3年間で150万人が死亡した。
 ヤルタ会談の生み出した体制は、冷戦を生み、現代に残るひずみを生んだ。

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