映像の世紀 第8集恐怖の中の平和

 東西冷戦により、米ソは核実験を繰り返す。アメリカが核実験に成功した6年後、ソ連核兵器の開発に成功。冷戦は、核戦争の危険をはらんだ物となった。両国は、相手の核兵器を上回ることで、軍事的優位を確保しようとした。第8集は冷戦の核競争を描く。
 豊かなアメリカ社会。その中で市民が警戒したことは共産主義の動向であった。中国がすでに共産革命を追え、朝鮮戦争が継続していた。第二次世界大戦の最高司令長官アイゼン・ハワーは共産主義への徹底抗戦を呼びかけ、圧倒的人気を得た。当選後ハワーは、核兵器共産主義への対抗策と位置づけ、核実験を続けた。開発された水爆は、広島の数百倍の威力を誇り、実験現場であった島は成層圏まで吹き飛ばされた。こうして、ソ連を再び追い返した。ソ連では、スターリンが西側に対抗すべく、重工業や軍備拡大を行った。
 ソ連の核開発は、現在のカザフスタン共和国で秘密研究都市が構築され、行われた。アメリカに遅れて9ヶ月。水爆を開発する。それを前にしてスターリンが死去する。側近フルシチョフは回想する。彼の死は恐ろしいことで、この後さらに恐ろしい出来事が備えているのではないか。スターリンの死後、ソ連はアメリカとの関係改善を目指す。
 東西対立の最前線、ベルリン。東ドイツ領内に位置し、西側と東側の支配するベルリンは、対立の前線となった。東側陣営の領内にある西ベルリンを西側は重視。多額の資本を投入した。その魅力に東側ベルリンの住民は移動を開始する。東ベルリン市民は不満と募らせ、暴動を起こす。ソ連国旗が引き釣りおろされ、熱気は頂点に達した。秘密警察はそれを粛清。さらに軍を投入し制圧を始めた。戒厳令を発布し、力による抑圧を加えた。
 アジアおける対立は、朝鮮半島である。民族分断悲劇を生んだ。実質アメリカ軍である国連軍とソ連中国軍の戦闘である。停戦が実現する3年後まで熾烈な戦闘が続いた。

 東西の緊張が緩和した1955年、東西首脳会談が開催させる。アイゼンハワーとフルシチョフの対談が始まる。アイゼンハワーソ連の恐れ、フルシチョフもアメリカを恐れていた。アメリカは、ソ連が次々と核実験を成功させることに脅威を覚えていた。ソ連は2Mトンの威力を誇る核兵器を開発。もはや戦争は不可能になったとフルシチョフは語り、核抑止力の時代を迎える。アメリカは核戦争を想定した実験を繰り返した。兵士に核爆発を体験させた。兵士は、自分の指が透ける様子を見たと言う。
 そして東西の核実験は、第五福竜丸事件を起こす。第五福竜丸は世界に被爆の恐ろしさを伝えた。核実験が環境を大きく破壊することにようやく気付きだしたのである。フルシチョフは、核兵器の実験を見て、スターリンの支配を批判する。それにより、ソ連支配下社会主義国家は反旗を掲げた。ハンガリーでは暴動が発生。翌日粛清が行われたが、ハンガリー軍の協力もあり、一時反乱が成功すると見られた。しかし、本隊の突入により3000人が死亡。20万人が亡命した。

 1950年代後半、米ソは新たなる対立の幕開けを迎える。宇宙競争である。ソ連が打ち上げ成功したスプートニクからそれは始まった。それは世界を驚かせた。そして、ソ連核戦略優位を世界に見せ付けた。さらに、ライカ犬を打ち上げた。有人宇宙飛行の可能性を示唆したものであった。スプートニクから遅れて2ヶ月。アメリカの発射は失敗。爆発する。この出来事は、ソ連の優位を完全なものとした。ソ連の秘密工場ではICBMの開発が行われていた。これにより、本土から直接敵国を核攻撃できることになった。スプートニクの成功はICBMの成功を意味していた。アメリカは戦略ミサイル軍を新設。ICBMの配備を進めた。スプートニク成功の年は、ソ連の革命成功40年の年であった。式典には毛沢東ホーチミンなどの指導者も参加していた。翌年フルシチョフは依存の第一書記の役職と首相の役職を兼職し、ソ連最高の権力を保有した。
 権力を掌握したフルシチョフ社会主義国家の問題を解決すべく活動を開始した。まずはベルリンであった。フルシチョフは西ベルリンの解放と連合軍撤退を求めた。アメリカは断固として反対した。反対に要求を撤回したフルシチョフであったが、その後も圧力を加えていった。アメリカ市民はソ連の脅威に恐れ、国防費の更なる増額を求めた。だが、ハワーは増額を拒否していた。その理由はU-2偵察飛行機からの情報であった。それにより、アメリカはICBMの配備が進んでいないことを察知していた。ソ連の脅威は市民が生み出した幻想であった。だが、U-2は、ソ連軍に撃墜された。生存していたパイロットを公開裁判にかけ、スパイ行為非難した。当初否定していたアメリカもパイロットの証言を受け、反論。一時解けていた氷は再び固まった。

 1960年、大統領選挙。J.F.ケネディが大統領となった。フルシチョフはこの時期、国連本部を訪問。キューバ革命を成功させたカストロ議長と出会う。キューバ社会主義化はアメリカに追って大きな脅威となっていった。そして、ソ連は有人宇宙飛行を達成させる。ソ連にとって、又とない宣伝の機会となった。これらの成功を盾にケネディに挑んだ。ケネディは様々な問題を抱えながら、ウィーン会議に参加。ケネディに西ベルリンの占領軍撤退を求めた。だが、到底容認できるものでなく、拒否する。フルシチョフは最後の手段。ベルリンの壁の構築を始めた。西側諸国は戦争の勃発を恐れ、強硬な手段を行使できず、黙認した。壁は人々を離れ離れにした。家族をはじめ多くのつながりがばらばらになった。壁を舞台とした悲劇は壁の崩壊するまでの28年間続いた。
 1962年、アメリカ軍はキューバで建設中のミサイル基地を発見した。キューバ危機の発生である。ミサイルによりアメリカとキューバとの力の均衡を図ったのである。ケネディは海上を封鎖。米軍やキューバは動員体制発布され戦争の準備が行われた。世界は核戦争勃発の危機に直面した。アメリカはソ連と戦争を望まず、ソ連もアメリカと戦争を望んでいなかった。戦争の開始は核戦争のそれと同義であった。フルシチョフとの交渉により、キューバ危機は回避される。米ソの緊張は緩和されていった。だが、ケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚する。

 アメリカはベトナム戦争へ介入。米ソは再び核開発競争を再開する。世界で行われた核実験は、1500回を数えた。

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