映像の世紀 第10集民族の悲劇果てしなく

 冷戦を終え、民族主義が拡大。国家の主導権、宗教などを対立の争点として、民族は対立した。第10集は難民など民族の悲劇を描く。
 映像に難民が始めて登場するのは第一次大戦末期。オスマントルコ帝国からの難民であった。このときロシアでは共産党政権が生まれ、革命後も内戦が続いていた。その混乱はロシア難民を生み出した。特にロシア難民は残酷でこのときに発生した記録的寒波に襲われ900万人が餓死し、市場では塩漬けされた人肉が販売された。ドイツではヒトラーが独裁体制を確立。ユダヤ人難民の発生至る。ユダヤ人は第二次世界大戦時にもっとも凄惨な迫害を受けた民族であった。ユダヤ人は自分たちの国家を保有していなかった。ヒトラーユダヤ人の財産を没収させる法律を施行し、財産は没収された。またロシアはスターリンの指導の下に入った。スターリンに歯向かうものは強制収容所に送られた。
 ユダヤ人は約束の地パレスチナに移住する。また、同じく国を持たない民族アラブ民族が移民。その結果現代に続く中東の争いに至る。双方はイギリスと言う大国に制御されていた。しかしユダヤ民族の移民が急速に拡大。アラブ民族は危機感を覚え、争いが発生する。イギリスの鎮圧も効果が薄くなっていった。
 また、ユーゴスラビアでもセルビア人とクロアチア人の対立があった。双方は異なった民族であった。1930年代、反セルビア派の軍事政権が誕生。クロアチアは独立。セルビアは直ちに反発。クロアチアはドイツと軍事同盟を締結。後ろ盾を強くした。クロアチアセルビア人の虐殺を開始した。ドイツをモデルとして、強制収容所を設置。セルビア人は銃殺で処刑されていった。
 
 第二次世界大戦終結。分裂していたユーゴスラビアは指導者チトーの下再統一。クロアチア人は弾圧された。大戦終結によって多くの体制が変化し、新しい秩序が生まれた。それにより、多くの難民が生まれた。パレスチナではユダヤ人移民が急増していた。イギリスは一ヶ月の入植を1000人に制限。だが、入植を求める人数は10万人に達していた。アラブ人は武力で排除を宣言。だが、ユダヤ人の列は絶えなかった。難民船は拿捕され、難民は元の場所に戻された。ユダヤ難民はヨーロッパに安住の地を見つけることができなかった。だが再びヨーロッパへ戻された。ユダヤ人はそれに反発し、イギリス軍のパレスチナ司令部を爆破。イギリスはついにパレスチナを放棄。国連に問題の解決を委ねた。国連パレスチナ分割案を可決。ユダヤ人のイスラエルの建国を承認。国境線が作られた。だが、反発は続く。第一次中東戦争が勃発。敗北したアラブ人は追放され、難民となった。そして、その問題は現代まで続く。
 1953年、スターリンの死亡によって反ソ連の運動が各地で勃発。ハンガリーで動乱が起こった。だが、ソ連軍の本格的軍事圧力で失敗した。ベルリンではベルリンの壁が作られた。
 
 1960年代、ベトナム戦争が激化、泥沼化した。隣国カンボジアは中立を宣言していたが、ベトナムを支援していると攻撃を受け、親米政権が樹立される。その反対活動派にポルポトが居た。そしてアメリカの支援を受けた政府軍とポルポト派の衝突が発生。内戦の突入した。首都クノンペンは革命派によって解放。アメリカ軍は撤退をする。実権はポルポトに移る。同時期ベトナムでは北ベトナム軍が南下。南ベトナムの人々は虐殺の噂を恐れ、難民化。多くのベトナム人がばらばらになった。
 カンボジアではポルポトが人民を田畑に移動さえ、国土の復興の労働に当てていた。都市は無人になっていた。子供たちは親から引き離され思想教育が行われた。ベトナムはこの惨状を見て、追放を宣言。侵攻する。そのとき、ポルポトに叛く人々が粛清された事実が判明する。内戦により、カンボジア人はタイ国境へ移動する難民に変わった。
 1989年、冷戦が終結ベルリンの壁が崩壊。ドイツが統一された。共産主義圏は民主化された。そして、その頂点であったソ連すら崩壊した。ソ連崩壊により各地で内戦が勃発。ユーゴスラビアでは、セルビア人とクロアチア人の衝突が再開した。

 難民の世紀20世紀。現在地球にあふれる難民は3000万人を数える。

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